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ユニチカ・フェニックス (バスケットボール) : ミニ英和和英辞書
ユニチカ・フェニックス (バスケットボール)[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ユニチカ・フェニックス (バスケットボール) : ウィキペディア日本語版
ユニチカ・フェニックス (バスケットボール)[ちょうおん]

ユニチカ・フェニックス(UNITIKA Phoenix)は、かつて存在した女子バスケットボールチームである。
== 歴史 ==
1949年に大日本紡績(ニチボー)本店女子バスケットボール同好会として大阪市で創部。全日本実業団で3位に入る。1954年に平野区の平野工場に統合されニチボー平野に改称。
1956年に監督就任した女子バスケ界の名将尾崎正敏の指導により1958年オールジャパンで初優勝、1965年からは8連覇を成し遂げるとともに、1967年創設の日本リーグでも第1回での優勝以来7連覇を達成(リーグ連覇記録は1998年にシャンソン化粧品に更新されるが、オールジャパン連覇記録は現在も破られていない)。その間、1968年まで「国内公式戦171連勝」を記録し、貝塚のバレーボール部とともにニチボーの名を知らしめることになる。特に1971年日本リーグではベスト5を独占した。国際大会でも1967年より朴正煕杯争奪東南アジア女子バスケットボール選手権大会に単独チームとして出場し、1969年の同大会で優勝した。
1969年にニチボーが合併によりユニチカに変わると平野工場は閉鎖され、バスケ部は三島郡島本町の山崎工場に移転し、「ユニチカ山崎」に変更。1977年にユニチカ山崎工場が大阪染工に統合されたことに伴い「ユニチカ」となる。
1975年の世界選手権では尾崎監督を始め、ユニチカの選手が主力として活躍し銀メダル獲得に貢献した。
女子日本リーグ7連覇後は日立戸塚第一勧銀が力を付けてきたもののこれらと並んで3強として君臨していた。だが、尾崎が監督を退任して現場を離れると、共同石油、シャンソン化粧品といった新興勢力の台頭にも押され、1980年のオールジャパンを最後にタイトルから遠のく。その後も低迷は続き、遂には実業団リーグ降格となる。
1991年にバレーボール部が「ユニチカ・フェニックス」を愛称としたのに連動し、バスケットボール部も「フェニックス」とした。1994年、全日本実業団で優勝。1995-96年には日本リーグ2部を制し、入れ替え戦でも富士通を下し1部復帰を果たす。
1998年、かつてユニチカ宇治(旧日本レイヨン、1976年解散)が本拠地としていた京都府宇治市に移転。
長引く景気低迷のため1999年のWリーグへのリニューアルを前にしてトップリーグから撤退(翌年にはバレーボール部が休部となり、東レに移管された)。以降は京都府の大会に参加し、2000年・2001年の2年連続でオールジャパン出場も果たしたが、2004年廃部〔サポーター宣言 グローバル人材・CSR・BOPビジネスの可能性 - JICAボランティア JICA〕。
獲得した全国タイトル数は計33回で、JX-ENEOSサンフラワーズ(旧共同石油)についで2番目に多い。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ユニチカ・フェニックス (バスケットボール)」の詳細全文を読む




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